真実を追究する KSM WORLD

日本の歴史・政治など納得いかないものを徹底的に追究するブログ。

    日本の歴史

    1: KSM WORLD NEWS 2017/08/23(水) 20:32:31.81 _USER
    中国メディアの新浪網は22日、「日本が降伏した後の韓国はどうだったか。号泣する人、自決する人が至る所に見られた」と題する解説記事を掲載した。

    現在の韓国人の神経を逆なでするような誇張も交えた書き方からは、中国に多く存在する韓国人に対する反感を読み取ることができる。

    記事は冒頭で、1945年8月15日に日本の敗戦が決定した際に、多くの日本人が屋外でひれ伏して号泣したと紹介し、「軍国主義教育は全国民的で、日本には多くの極端分子がいた」「彼らは戦争が正義の行動と思っていた。本当に笑えてしまう」などと、当時の日本の状況を論じた。

    しかし、韓国についてはさらに痛烈で、「街では号泣したり自決する人が至る所に見られた」「これらの人々は自らを日本人と考え続けてきたからだ」などと、現在の韓国人の神経を逆なでするであろう記述をした。

    記事は韓国の近代史について、「1894年(勃発)の甲午中日戦争(日清戦争)の後、日本は清王朝から韓国地区の支配権を奪った」「(日本は韓国で)皇民化運動のような日本文化と思想の伝授を始めた」「(皇民化運動の)意義は韓国地区の人民を愚民化して天皇の子にすること」と紹介。

    さらに1939年には「創氏改名」令を発表し、韓国人の氏名を日本人と同様に変更することを求めたとして、韓国人は創氏改名を受け入れれば皇軍(日本軍)に入れると奨励され、尊敬されることができた」「韓国人は日本人になったと誇りを感じ、栄誉と思った」などと主張した。

    記事はさらに、第2次世界大戦期に、日本の中国侵略戦争に韓国人42万人が参加し、日本の東北開拓(満洲国開拓)を含めれば90万人もの韓国人が「(中国侵略という日本の)暴虐に手を貸した」と論じた。

    記事は、韓国の朴槿恵(パク・クネ)前大統領の父親である朴正煕(パク・チョンヒ)大統領も、軍人として中国東北地方で戦争に参加したと紹介。

    さらに「現在の韓国では、この時代の歴史を言い出せない。また認めたくない」「世界に向けて自らを被害者と言っている」と論じた上で、「1965年、日本は韓国に3億ドルの賠償を支払った。これが韓国の経済発展のために重要な土台になった」と紹介した。(翻訳・編集/如月隼人)

    http://www.recordchina.co.jp/b188291-s0-c30.html



    26: KSM WORLD NEWS 2017/08/23(水) 20:43:37.58
    ● 蔡さんの本「台湾人と日本精神」より

     そこには敗戦直後の日本の様子が生々しく描かれている。
    蔡さんのいた岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊には、日本人も台湾人も朝鮮人もいた。台湾人も朝鮮人も共に日本人として戦っていたのだ。

     創氏改名は強制でなく、台湾では「許可制」、朝鮮では「自己申告制」だった。蔡氏は本名で通したが、ほとんどの朝鮮人は改名していたという。
    日本が敗戦したと知って、台湾人生徒は日本人と一緒になって悔し涙にくれた。

     ・・・が、朝鮮人生徒は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で襲って強奪するなど、やりたい放題だった。
    日本人を殴って「戦勝国になったんだ!」と威張り散らす者もいた。
    ちなみに「三国人」というのは、このときGHQが台湾人・朝鮮人は戦勝国人でなく”Third Nationals”と呼んだのを、日本語で「三国人」としただけのことである。

     それにも関わらず朝鮮人たちは「俺達は戦勝国だ」「もう日本の法律は守らなくていいんだ」と、態度を豹変させ違法行為、暴動を繰り返した。
    買出し列車では、朝鮮人が我が物顔で乗り込んで、日本人は身を縮めていた。
    日本人の女はいたずらされ、日本人の男たちはちょっとでも朝鮮人の気に触ったらリンチにあっていた。
    「三国人」という言葉は、占領軍の威を借りて傍若無人に振舞っていた朝鮮人のいるなかで生まれた言葉であった。

    蔡氏談:「私を含め敗戦で意気消沈する中で、日本人をいびりつづけ肩をいからせていた朝鮮人どもが「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけていた我々におべっかを使ってきた。
    それは中華民国が連合国の一員であったからにほかならない。
    弱いものには威張りちらし、強いものには媚びへつらう、そんな朝鮮人の極端な習性を目の当たりにした気がした。」

    -----著書「台湾人と日本精神」より

    【【韓国】日本が第2次世界大戦で降伏した時の韓国、「号泣・自決」する人が多かった―中国メディア[8/23] 】の続きを読む

    1: KSM WORLD NEWS 2017/08/16(水) 09:38:19.14 BE:323057825-PLT(12000) ポイント特典
    NHKが13日夜に放送した旧日本軍「731部隊」に関するドキュメンタリー番組が、中国で反響を呼んでいる。
    中国国営中央テレビは15日昼のニュースで「細菌兵器や人体実験に関する兵士の証言テープを公開し、残忍な犯罪行為を異例にも認めた」と紹介。
    中国外務省の華春瑩副報道局長は記者会見で「真相を明…

    NHK「731部隊」番組、中国で反響
    http://www.nikkei.com/article/DGKKASFS15H4C_V10C17A8PP8000/

    【NHK「731部隊」番組、中国で反響 中国政府「残忍な犯罪行為を認めた」】の続きを読む

    今日の記事はとても大切なことを書いています。
    日本は、戦争をしていたのです。
    無辜の市民の大量殺戮を行う原爆は、すでに戦争ではなく「場外乱闘」です。
    このことは、はっきりと認識しておかなければならないことです。


    広島平和公園・原爆死没者慰霊碑
    20170805091922407

    昭和20年(1945年)8月、広島と長崎に原爆が投下されました。
    6日が広島、9日が長崎です。この原爆によって、広島では20万人の市民の命が奪われ、
    長崎では14万9000人の市民が犠牲となりました。

    戦争には、戦争のルールがあります。
    それが戦時国際法です。通常時の法律とは異なります。
    戦争では、人が人を殺し殺されることは、悲しいことですが、ある意味当然のことです。
    しかしそこにも一定のルールがあります。

    何のために軍人が軍服を着ているのかといえば、それは「戦う人」だからです。
    軍服を着、制帽や軍用ヘルメットを被り、武器を手にしていれば、殺しても構わないというのが戦時国際法の立場です。そうしなければ、自軍が殺されてしまうからです。

    しかしその戦時国際法は「無辜の市民への虐殺」は許していません。
    いまでもナチス・ドイツが世界から糾弾されているのは、それが事実かどうかはさておき、アウシュビッツ強制収容所等で市民への虐殺を行ったとされていることが原因です。
    原爆は、まさにその「無辜の市民への虐殺」そのものです。

    昭和天皇の終戦の詔勅に、次の言葉があります。
    「加之(しかのみならず)、
     敵は新(あらた)に残虐なる爆弾を使用して、
     頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷し、
     惨害(さんがい)の及ぶ所、
     真(まこと)に測(はか)るべからざるに至る」


    ここに書かれた「新(あらた)に残虐なる爆弾を」という昭和天皇のお言葉は、明らかに原爆のことをを指しています。

    戦場において、ある程度市民に犠牲者が出てしまうことは、やむを得ないということができます。
    戦争は非常時なのです。先に避難せず、そこにいた方が悪いと考えるのが戦時国際法です。
    しかし原爆の一般市民への使用は、「戦闘に巻き込まれた被災者」とはまったく意味が異なります。
    これは戦争のルールを明らかに逸脱するものであり、明らかな戦時国際法違反です。


    このことが何を意味するかというと、それは「国際ルールに基づいた究極の国家外交としての戦争」ではなくなった、つまり、戦争がルールのあるいわば「リングの中での打ち合い」ではなく、ルールのない「場外乱闘」になったということです。これは、もはや戦争ではありません。ただの殺し合いです。
    この上、日本が復讐のために原爆を米国に向けて投下するのでしょうか。

    http://nezu621.blog7.fc2.com/


    1: KSM WORLD NEWS 2017/08/05(土) 18:29:45.77 _USER9
    さほど飛行機に興味のない方でも、「ゼロ戦」「ハヤブサ」という機体名はご存じだろう。「ゼロ戦」は帝国海軍「三菱零式艦上戦闘機」、そして「ハヤブサ」は帝国陸軍「中島一式戦闘機 隼」の略称である。

    零戦と隼は、太平洋戦争前のほぼ同時期に開発が始まった。両機は列国戦闘機を凌駕する運動性能と長大な航続距離が要求され、同型式のエンジンを採用したため、似通った性能とスタイルになった。それは設計上の必然であった。交戦した米軍は、しばしば両機を混同していたほどである。

     したがって「もし零戦と隼が戦ったら、どちらが強いだろう?」という疑問がわくのも当然である。そこで強烈なライバル意識が介在する帝国海軍と帝国陸軍は、面子は賭けるが記録には残さない、非公式な“手合わせ”(模擬空戦)を実施した。その結果、全般的に零戦の方がやや優勢だったと伝えられている。

     アメリカに現存する零戦22型と隼Ⅲ型甲を世界で初めて編隊空撮した際に、零戦の米国人パイロットは、「零戦は空気抵抗が小さいせいか、スピードが乗って減速しにくいので、隼を追い越しそうになり、編隊を組むのが難しかった」と証言している。同時代に開発され、同型式のエンジンを搭載していても、徹底して空力的洗練を追求した零戦の方が、性能的にやや勝っている証拠の一端といえるだろう。

    その反面、空力を追求するあまり、構造・工作が複雑になってしまった零戦は、生産性の悪が、資源・人材の乏しい当時の日本には足かせとなったことも事実である。生産性の悪さに関して、現在も零戦の新造作業を行っている米レジェンド・フライヤー社は、「欧米戦闘機と比較して、製造に四倍も手間がかかる」と語っていたほどだ。

    世界で唯一、飛行可能な隼Ⅲ型甲(手前)は、千島列島占守(シュムシュ)島で回収した残骸。零戦22型はニューギニア・バボ飛行場跡で回収した残骸を基に、それぞれ新造された(Photo:Atsushi "Fred" Fujimori)

     かたや隼は、割り切った設計を導入することで、戦時下の必須条件である生産性を高めていた。あくまで性能を追求して、理想を達成するか? あるいは妥協しても、現実的な生産性を優先するのか? 零戦と隼は、スタイルこそ似通っていても、設計思想は対極に位置する戦闘機であった。(文・藤森篤)

     【プロフィル】藤森篤(ふじもり・あつし) 日本大学理工学部航空宇宙工学専修コースで、零戦設計主務者・堀越二郎博士らに学ぶ。30余年間、飛行可能な第二次大戦機の取材・撮影をライフワークとする。著書は『零戦五二型・レストアの真実と全記録』『現存レシプロ戦闘機10傑』(エイ出版社)など。


    http://www.sankei.com/premium/news/170805/prm1708050011-n1.html
    2017.8.5 09:00

    http://i.imgur.com/VcJZyiY.jpgno title

    帝国陸海軍を代表する二大戦闘機、零戦(奥)と隼(Photo:Atsushi "Fred" Fujimori)
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    世界で唯一、飛行可能な隼Ⅲ型甲(手前)は、千島列島占守(シュムシュ)島で回収した残骸。零戦22型はニューギニア・バボ飛行場跡で回収した残骸を基に、それぞれ新造された(Photo:Atsushi "Fred" Fujimori)
    http://i.imgur.com/qaRmheC.jpgno title

    零戦と隼の原型機が搭載したのは、ともに中島飛行機製の空冷星型複列14気筒エンジン。海軍は「栄」、陸軍は「ハ25/115」と、名称は異なるが、実質的に同一エンジン(Photo:Atsushi "Fred" Fujimori)
    http://i.imgur.com/0NSucV5.jpgno title

    隼Ⅲ型甲は最終量産型、零戦22型は中期に登場した型式。改良を重ねた隼は最終型にいたって、零戦とほぼ同等まで性能を向上させた(Photo:Atsushi "Fred" Fujimori)
    http://i.imgur.com/KSLnY6I.jpgno title

    【【いまも飛ぶ大戦機】「零戦」と「隼」、どちらが優秀な戦闘機だったか? 実際に戦わせてみた】の続きを読む

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     二日市保養所では戦後、満州などからの引揚げの過程で、ソ連兵らから性暴行を受け妊娠した日本人女性400~500人の中絶手術が行われた。京城帝大医学部の医師や看護婦等の人道的な措置だった。それは1977年になって、RKB毎日放送がドキュメンタリー「水子のうた」を制作し、放送した。ところが、その後、福岡地区で散発的に新聞やテレビ報道がなされることはあっても、全国的な関心事にはならなかった。

     満州、中国大陸、朝鮮、台湾、樺太など「外地」からの引揚者は、約500万人を数える。このうち佐世保浦頭(うらがしら)港に上陸した者は139万6,468人、博多港が139万2,429人だ。彼女たちを迎える引揚港の周囲には、二日市保養所のように、堕胎や性病治療を目的とする施設が開設された。しかし「戦後史において、この経験は長らく抑圧されて来た」(シンポジウム開催趣旨)のである。

     たとえば、新聞報道の場合、1994年から2014年までの20年間に報道された記事のうち、「二日市保養所」を含む記事は、朝日10、毎日6、読売5、産経1の計12本にすぎない。地元紙の西日本新聞は33本だ。全国紙4紙の扱いを見ると、東京本社版に記事が載ったのは、朝日2回(社会面と家庭面)、読売が1回(社会面)、毎日ゼロ、産経1回(オピニオン)にすぎない。記事自体が少ないうえに、ローカル化されてきたのである。「抑圧」という表現は、決して、大げさではない。

     このようなマスコミ報道が変化を見せ始めるのは、戦後70年が近づいたころからだ。

     昨年初放送されたKRY山口放送制作の番組「奥底の悲しみ~戦後70年、引揚者の記憶」は、第11回日本放送文化大賞グランプリ、民放連賞最優秀賞をダブル受賞した。RKB「水子のうた」以降の空白を埋める衝撃作だった。「奥底の悲しみ」は、引揚げ途上の性暴行の実態を、詳細な証言で描き出した。この番組は、ネットでも見ることができる。

     しかし、問題は、依然として放送が「深夜枠」の範囲内に留まり、多くの国民が気づいていないことだ。そして、シンポジウムで指摘されたように、歴史学やフェミニズムは、異様なほどの沈黙を続けてきたのだ。

     追悼行事も、とても心細い。
     毎年5月14日、筑紫野市の高齢者福祉施設「むさし苑」の駐車場にある「二日市保養所」跡地の水子地蔵では、ささやかな供養祭が行われてきた。私は今年、初参加して驚いた。参加者は40人ほどと少なく、地元市議など有力者の姿もない。マスコミ取材もないという寂しさだった。「去年来られた引揚者も今年は姿が見えない。いつまで、供養祭ができるだろうか」。関係者のつぶやきを、深刻に受け止めざるを得なかった。

     私は「二日市保養所」問題を、3回に分けて連載した。取材過程で、関東地区の病院で行われた引揚者女性への中絶手術に立ち会ったという元看護婦の証言を聞いた。九州以外の病院で、中絶手術があったことを示す初証言だ。引揚者は90歳近くになっている。取材も学術研究も急がねばならない。

     地元の二日市中学は今年夏、引揚げと二日市保養所の悲劇を演劇化した「帰路」を上演した。私の連載記事にも、地元から反響があった。少しずつだが、「二日市保養所の悲劇を語り継ごう」という動きが出てきた。この動きを、さらに高めなければならない。

    http://www.data-max.co.jp/281207_sm1/

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