真実を追究する KSM WORLD

日本の歴史・政治など納得いかないものを徹底的に追究するブログ。

    日本のニュース

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    有名な投資家であるバフエットはこのように言います。「愚か者でも経営できるビジネスに投資しなさい。なぜなら、いつか必ず愚かな経営者が現れるから」

    しかし、優良なビジネスが劣悪なものに変質するさまを私は多く見てきた。のちの経営者が複雑化し愚か者ではできないビジネスにしてしまい、企業価値がなくなってしまう例はたくさんあるのです。

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    2005年2月15日、PayPalの従業員であったチャド・ハーリースティーブ・チェンジョード・カリムらがカリフォルニア州サンマテオで設立した。設立のきっかけはハーリーらが友人にパーティーのビデオを配る方法として考えた技術を使い、「皆で簡単にビデオ映像を共有できれば」と思いついたことによる。初めて投稿された動画は、ジョード・カリムがサンディエゴ動物園の象の前にいる様子を撮影した「Me at the zoo」というもの。
     

    セコイア・キャピタルからの投資を受け、12月より公式にサービスを開始。10月に会社をカリフォルニア州サンブルーノに移転した。
     

    アメリカでは2005年12月頃にNBCの人気テレビ番組『サタデー・ナイト・ライブ』がアップロードされていたことからブログなどで話題になり、2006年上旬にはYouTubeの映像をブログなどに貼り付け簡単に見られるAPIも公開され爆発的に普及した。日本でもこの頃からブログなどで紹介され人気が上昇した。
     

    上記のように徐々に注目を集めたが、大量のアダルト動画がアップロードされはじめたことが問題となっていたが、人的リソースの問題から厳密な処理ができず削除対応がゆるやかであり、それがかえって利用を増やすこととなった。
     

    2006年4月にアメリカの映画制作会社のワインスタイン・カンパニーディメンション・フィルムズと提携し、映画の予告編がYouTubeで配信された。これを初めとして様々な企業や団体がYouTubeにチャンネルを持ち、コンテンツを公開するようになった。


    YouTubeはサーバの回線コストだけで月間100万ドルに達すると言われていたため、どう収益を上げていくかが注目されていたが、2006年10月9日に16億5000万ドルの株式交換でGoogleの買収に同意した。
     

    アップロードされた動画に対し厳しい規制が取られてしまうのでは」と一般ユーザーから危惧が持たれていたが、ハーリーCEOは「YouTubeはGoogleに買収されたが、今後もYouTubeとしたブランドで独立したサービスを提供し続ける」と述べた。またGoogle側も類似サービスであるGoogle Videoのサービスを継続し、検索窓を通じてYouTube内の動画を検索するサービスを開始した。


    その後、タイム誌の「Invention of the Year for 2006」に選出。

    2007年3月、民間調査会社のネットレイティングスから日本国内家庭からの利用者が1000万人を超えたことが発表された。同年5月、第11回ウェビー賞を受賞。


    2008年11月22日、YouTube本部が主催する公式イベント「YouTube Live」がサンフランシスコで開かれ、11月23日には東京で「YouTube Live Tokyo」が開かれた。


    2013年9月14日、YouTubeが主催する公式イベント『YouTube エンタメウィーク』が開催される。プロデューサーは高須光聖


    単体では世界最大の広告代理店である「電通」には4代目社長吉田秀雄によって1951年につくられた電通社員、通称「電通マン」の行動規範とも言える「鬼十則」と呼ばれる非常に有名な言葉があります。いわく、

    1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
    2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
    3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
    4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
    5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
    6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
    7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
    8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
    9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
    10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。


    というもの。これは割とよく知られているのですが、その逆バージョンである電通「裏十則」というものもあったようです。

    詳細は以下の通り。
    裏十則 | Blog | nozomu.net - 吉田望事務所 -


    1)仕事は自ら創るな。みんなでつぶされる。 

    2)仕事は先手先手と働きかけていくな。疲れるだけだ。 

    3)大きな仕事と取り組むな。大きな仕事は己に責任ばかりふりかかる。 


    4)難しい仕事を狙うな。これを成し遂げようとしても誰も助けてくれない。 


    5)取り組んだらすぐ放せ。馬鹿にされても放せ、火傷をする前に…。 


    6)周囲を引きずり回すな。引きずっている間に、いつの間にか皆の鼻つまみ者になる。 


    7)計画を持つな。長期の計画を持つと、怒りと苛立ちと、そして空しい失望と倦怠が生まれる。 


    8)自信を持つな。自信を持つから君の仕事は煙たがられ嫌がられ、そしてついには誰からも相手にされなくなる。 


    9)頭は常に全回転。八方に気を配って、一分の真実も語ってはならぬ。ゴマスリとはそのようなものだ。 


    10)摩擦を恐れよ。摩擦はトラブルの母、減点の肥料だ。でないと君は築地のドンキホーテになる。


    実際に企業に入って働くのであれば、むしろ日本社会においてはこの「裏十則」の方が「ウンウン、あるある」と納得できるのではないでしょうか。

    http://ameblo.jp/nadesikorin-fight/entry-12233779597.htmlから転載



     中国共産党による「歴史の作り変え」を絶対に許しちゃダメ!

    ..ナチスドイツは欧州全土。日本軍は南京だけっておかしいでしょ!


    .....なでしこりんです。やっぱり見てます「紅白歌合戦」ww  まあ今年一年の芸能界の動きを知るにはいいかなと。それにしてもジャーニーズのメンバーがみんな「おっさん」になっていたのには驚き桃ノ木山椒の木。そら誰もが年をとります。でも人とともに歴史が忘れられていくのは残念ことですね。 


    .....もう 時間がないので「なでしこりんベスト10」は無理ですが、もしお時間があれば過去のブログものぞいて見てください。私はホームランは狙わずに「毎日出場」だけを目標にブログを書いてきました。そのせいか「似た内容が多い」かもしれませんが、皆様がブログを書かれる際の材料にでもしていただければ幸いです。


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    .....5月の記事 の中ではこの記事が特に大切だと思っています。それにしても「南京大虐殺」という宣伝をやっていて中国人は恥ずかしくないのでしょうか? ヨーロッパに行けば「WWⅡの戦跡」はすぐに見つけられます。それこそヨーロッパの至る所に「ナチスドイツの強制収容所跡」や「ナチスによって虐殺された村」などがそのままの形で保存されています。ドイツ人が「俺たちは虐殺していない」なんてことが言えないほどの証拠が至る所にあるのです。


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    .....では 「日本軍の蛮行」と呼ばれる場所はあるのか? 「南京大虐殺」は南京。南京の近くには上海がありますが「上海大虐殺」はないのでしょうか? 香港は? 北京は? 大連は? 中国のプロパガンダに登場するのは南京だけ? もうこの点で「おかしい」と思わない方がおかしい。ちなみに中国共産党のボスの一人の江沢民の実父・江世俊は南京にあった汪兆銘政府に雇われていた日本軍の特務工作員。江沢民だって南京中央大学日本語学科の学生ですからね。「南京大虐殺」があったというのなら江沢民は何をしていたのか?
     
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    .....鈴木史郎さん のように当時を知る人が「本当の歴史」を語り継ごうとされることは立派なことだと思います。私たち日本人は「南京大虐殺はなかった」ときちんと子供たちに伝えていきましょう。歴史の史実は声の大きさで決まるものではないはずです。 By なでしこりん


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    .....鈴木史朗氏 【南京大虐殺は真実ではないと思う理由】

    〈もう一度南京へ〉

    TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。

    撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。 

    「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」 

    このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。

    この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

    ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」 

      他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」、「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」。

    「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」。

    そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

    〈天津での日々〉

    私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。残された母は、私が一歳になるのを待って、一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。


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    そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

    もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。

    「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。

    当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。

    それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。

    たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

    〈中国人女性にモテた父〉 

      父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。 

    父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。 

    ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

    〈南京ののどかな光景〉 

    胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。

    しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。

    「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」

    また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

    この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。あのジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

    もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。

    〈命からがら引き揚げ〉

    歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

    増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワイドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

    優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。

    終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。

    それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。

    幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

    〈テレビ局の「自主規制」〉 

    命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

    局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。

    以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(〇七年十月~〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。

    この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

    報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。

    〈日中の未来のために〉

    「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、日中が手に手を取ってやってくことはできません。日本と中国は永遠に隣同士ですから、その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、反日教育はたださなければなりませんし、このような状況は日本にとっても中国にとっても、「最大の悲劇」としかいいようがありません。

    私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。その中国の方々が、このような「嘘」を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」。

    我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。 

    筆者 鈴木史朗(フリーアナウンサー)
    1938年、京都生まれ。62年、早稲田大学法学部卒業後、TBSに入社し、アナウンス部へ配属、その後報道局なども経験。主な出演作品に、TBS『さんまのスーパーからくりTV』、『水戸黄門』(ナレーション)、日本テレビ『オジサンズ11』など。著書に『鈴木史朗の健康道場 ご長寿TVで長寿のコツ』(小学館文庫)。

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    https://www.oisix.com/shop.osechi--cont-zouniyurai__html.htm
    から引用転載

    お雑煮の由来と意味

    お正月に必ず食べるお雑煮。どうして元旦にはお雑煮を食べることになったのでしょうか?由来は日本人になじみ深い「米」からでした。

    お雑煮の由来

    お正月に食べるお雑煮の歴史は古く、始まりは平安時代だと言われています。餅は古くから農耕民族である日本人にとって、お祝いごとや特別な「ハレの日」に食べる「ハレ」の食べ物でした。年神様に供えた餅や里芋、にんじん、大根などを、その年の最初に井戸や川から汲んだ「若水」と、新年最初の火で煮込み、元旦に食べたのが始まりと言われています。雑煮の語源は「煮雑ぜ(にまぜ)」で、色々な具材を煮合わせたことからきています。お正月の三が日におせちやお雑煮を食べる際には「祝い箸」という両方の先が細くなったお箸を使いますが、これは取り箸と食い箸の両方に使えるように……というわけではなく、一方を人が使い、もう片方は神様が使う「神人共食」を表したものです。このようにお水や箸にまでこだわりがみられるエピソードからも、雑煮がいかにハレの日の食べ物かがうかがえます。

    お餅の入ったお雑煮を正月に食べる意味

    お雑煮の具材や味付けは地方によって異なりますが、一つだけ必ず入っているものがお餅です。室町時代には武士の宴会で必ず一番初めに最初の酒の肴として雑煮が振る舞われていましたが、当時は餅の原料となる米は高価なものであったため、庶民のお雑煮には、里芋が餅の代わりに里芋が入っているのが一般的だったようです。江戸時代に入り、一般庶民でも餅が簡単に餅が手に入るようになる頃には、味噌や醤油などの味付けや、丸餅と角餅などの東西の違いがあったと考えられています。

    汁の味付けについて

    関西地方のお雑煮は特に京都が有名です。が白味噌仕立てが多く、近畿を除く西日本と関東ではすまし汁仕立てが圧倒的に多いです。個性的なところでは、出雲地方では小豆雑煮と呼ばれるぜんざいのような見た目のお雑煮を食べたり、岩手では「くるみ雑煮」という、クルミを擦ったものに砂糖や醤油で味付けしたタレを添え、お雑煮の餅を付けて食べる二椀セットのお雑煮があります。

    餅について

    関西では丸餅、関東周辺や寒冷地では角餅が多い傾向にあります。関西では昔から「円満」を意味する縁起物の丸餅が主流ですが、江戸時代、人口が集中していた関東周辺では、ひとつずつ手で丸める丸餅よりも、一度に多く作れる角餅が使われるようになったからと考えられています。また、関ヶ原の戦いの影響で西日本が丸餅東日本が角餅に分かれたという説もあります。岐阜県、三重県、滋賀県のあたりは同じ県内でも丸餅と角餅が混在しており、境目ならではの面白さかもしれません。また、香川や愛媛ではあんこの入った餅を使用します。さらに、形以外にも焼いて入れるか煮て入れるかの違いも、全体の風味や食感に大きな影響を与える重要なポイントとなっています。

    具について

    大根やにんじん、ネギなどの一般的な野菜の他にはその土地柄を感じさせる産物が入ります。東北の山菜やキノコ類、新潟の鮭やイクラ、千葉の青海苔、島根の岩海苔やハマグリ、広島の牡蠣などです。武家文化の強い関東では小松菜や鶏肉を入れ「菜鶏」→「名取り」とし、敵の大将の首を取って名乗りをあげるようにとの心意気が感じられ、一方、京都では「人の頭になって過ごせるように」との願いを込め、頭芋(かしらいも)を入れます。

    続きはこちらで 
    https://www.oisix.com/shop.osechi--cont-zouniyurai__html.htm

    1325
    1: KSM WORLD NEWS 2017/01/02(月)07:58:25
    Shinta Yabeさんがリツイート
    TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY 1月1日

    今現在、警察は渋谷ハチ公前を年に2回も歩行者天国にして解放区にする体勢に移行しているので、
    これからは韓国・ソウルの中心部などと同じく、ここを大規模な反政権デモに
    使わせてもらえるんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。

    https://pbs.twimg.com/media/C1BDvrqUQAA_s-5.jpgno title

    https://pbs.twimg.com/media/C1BDvr6VQAQAAam.jpgno title

    https://pbs.twimg.com/media/C1BDvsIVIAA6mFM.jpgno title


    https://twitter.com/TOKYO_DEMOCRACY/status/815226045666193409

    【【反社会】しばき隊「これからはハチ公前をソウルと同じく大規模な反政権デモに使わせてほしい」 [H29/1/2]】の続きを読む

    http://ameblo.jp/nadesikorin-fight/entry-12233573269.htmlから転載

    たとえ敵同士であっても勇者を称え碑を作ったアメリカ人

    .....一方、お世話になった日本人の墓を冒涜するゲス民族韓国人!


     .....なでしこりんです。安倍総理がハワイを訪問された際、真珠湾攻撃中に戦死した飯田房太中佐の碑に献花されました。飯田房太中佐は日本海軍の航空母艦「蒼龍」の戦闘機搭乗員。私は決してアメリカ軍人すべてが騎士道精神に満ち溢れた紳士たちとは思いませんが、アメリカ人の中には確かに「勇者は勇者を称える。たとえそれが敵同士であったとしても」と考える人たちがいるのも事実だと思います。


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    .....実際、飯田房太中佐(戦闘任務時は大尉)の遺骸は米軍の手によって埋葬され、プレートには「PILOT-LIEUTENANT IIDA」と刻まれています。こういう点はアメリカ人の中にある人間性を認めるざるをえません。もちろん、アメリカ軍による広島・長崎の原爆投下、日本の主要都市への空爆による非戦闘員への無差別殺人を認めるつもりは毛頭ありませんが・・・・。


    .....一方日本政府のお陰で「奴隷解放」をしてもらった朝鮮人には人間性は微塵もないようですね。韓国朝鮮人って本当に人間なんでしょうか? 以下は3月27日の記事です。日本のマスゴミが絶対に伝えない記事だと思います。



    日本人の墓石を冒涜する韓国人は絶対に許さないぞ!

    .....こんなの同類が日本に何十万もいると思うだけでぞっとする!

    .....なでしこりんです日本語は世界的に見ても「他人を侮蔑する言葉が少ない」と言われています。それでも今日は「虫唾が走る」とか「反吐が出る」という言葉を使わざるをえません。やっぱり韓国人は最低の連中です。こんな連中を日本に一人もいさせたくない!




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    http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/48186768.html


    .....この写真 は韓国人がネット上にあげた写真。写真では韓国・釜山の街中で使われている「建材」と説明しています。もちろんこれは「日本人の墓石」ですよね。もう、ほんと、やりきれない。こういう写真を貼って何をしたいのでしょうか? このサイトをやっている韓国人は「日本人の感情」を逆なですることを楽しんでいるのでしょうか?


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    賤民のDNAは奴隷解放してもらっても消えず?

    .....絶対に 韓国人を許さない!私にはまったく理解不能です。単純に韓国人がバカで無神経なのか? それとも日本人への憎悪がこういう無礼を正当化させるのか? 韓国人は自分たちの墓石を倒され、人の足で踏まれる階段にされても平気なんでしょうか? あ~嫌だ!死者の魂まで愚弄する韓国人とその同類は日本から全員出て行ってほしい。韓国朝鮮人に沁みついた賤しいDNAは死んでも消えないのでしょうか? By なでしこりん

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